基源:イネ科 ( Poaceae) イネ Oryza sativa Linné の果実である。
「令和6年能登半島地震」の発生から 11月 1日で 10ケ月が経ちました。まだ復興途上の 9月に再び「令和6年奥能登豪雨」という「二重被災」となり心が痛みます。このような厳しい状況の中,能登半島中央部に位置する七尾市中島町では新嘗祭(11月23日に行う宮中行事で,天皇が新米を天地の神に供え,親しくこれを食する祭事。現在は「勤労感謝の日」として,国民の祝日となっています)への献上米を刈り取る「御抜穂式(おんぬきほしき)」が開かれました。
被災にあった能登半島ではお米の生産に非常に苦労されました。水田は地割れ・崩落や灌水設備の損傷等,最たるは農業者自身の被災で人手不足となりました。例年ならば,移植栽培(育てた苗を水田に植える)を行っていましたが,今年は担い手不足のため育苗,田植えの省力化になる直播栽培(水田に直接種をまく)を初めて試みた農家があったと聞きました。
コメはイネ( Oryza sativa Linné )の果実(えい果)です。Oryza はラテン語で「イネ」,sativa は「栽培された」という意味です。イネ(Oryza)属は,世界に 22種が分布します。イネ属の中で栽培されるのはイネ Oryza sativa Linné とアフリカイネ Oryza glaberrima Steud.の 2種ですが,アフリカイネは収量が低いため,現在世界で栽培されるほとんどがイネです。イネはさらに生態学型(気候,土壌などの環境に対する適応性)によってジャポニカ(日本型)とインディカ(インド型)に分けられます。
人によるイネの利用の起源についてはいくつかの学説があります。1970 年代に発表されたアッサム・雲南説は日干し煉瓦に含まれていた籾の形を計測して推定しています。その後,1980 年代に発表された中国・長江(揚子江)起源説は長江の中下流域で一万年前の野生イネ(ヒゲナガノイネ Oryza rufipogon Griff.)を利用した遺跡,7000 年前の稲籾と水田跡の発見から,イネのジャポニカ(日本型)はこの地域で生まれ,インディカ(インド型)は異なる起源を持つという説です(佐藤洋一郎,『日本のイネ品種考』,臨川書店,p.117-118,2019)。さらに,2012年に発表されたのが,中国広西省の珠江中流域説。この学説では遺伝子解析により,野生イネの限られた集団からイネのジャポニカ(日本型)が生まれ,イネのジャポニカ(日本型)と野生イネの交配によりイネのインディカ(インド型)が生まれたとしています(Nature, 490, 497-501, 2012)。今後も発掘調査や遺伝子解析の研究が進められ,進展が注目されます。
薬用としてのコメは『名医別録』(漢代の薬物書)の中品に「粳米」の名称で,下品には「稲米」(糯米のこと)の名で初収載され,使い分けがなされています。詳細は『生薬の玉手箱』No.137 「粳米」をご覧下さい。 『本草綱目』(明代の薬物書)「粳米」の項で,李時珍は「粘るものは糯,粘らぬものが粳であって…」と記しています。この粘り気の違いはデンプンの種類によるものです。粳米はおよそ 8割がアミロペクチン,2割がアミロースで構成され,一方,糯米はほぼアミロペクチンで,粘りに関係するアミロースはほとんど含まれません。
さて,『本草綱目』に引用されている『食物本草』の「粳米」に「新米を早速食へば風気を動ずる。陳いものは気を下し,病人には尤も良し」と記載があります。薬用に供する時は,新米よりも古米が良いようです。実は古米も『名医別録』の下品に「陳廩米」として収載されています(廩は穀物倉庫・米倉のこと)。陶弘景が「陳廩米」について『神農本草経集注』(梁代の薬物書)の中で「陳廩米,即ち粳米であって,久しく倉中に貯蔵して陳く赤くなったもののことである」と説明しています。江戸時代の百科事典とも言える『和漢三才図会』「陳倉米」の項には「陳倉米は 10年以上の者を用いる」とあります.粳米を10 年以上保管した後に,陳倉米として使用したようです。
先に記した能登半島で直播栽培を初めて試みた農家の方からコメは昨年より良い品質という評価を受けたと伺いました。12月には,奥能登地域の農家に古くから伝わる「あえのこと」があります。あえのことは稲作を守る田の神様を祀り,感謝を捧げる農耕儀礼で,春と暮れの年2回行われます。暮れは田の神様を家に招き入れ,一年の収穫を感謝し,家の中で過ごしてもらい,春になると田の神様を田んぼへと送り出す行事です。今年は,田の神様に,例年以上に疲れを癒していただきたいです。