基源:セミ科(Cicadidae)のスジアカクマゼミ Cryptotympana atrata Stal,C. pieli Kato,ミンミンゼミ Oncotympana maculaticollis Distantなど、いわゆるセミの仲間の虫体の抜け殻。

 私達は日常生活の中で、夏にはセミの、秋にはマツムシやスズムシなどの昆虫の鳴き声から季節を感じることがあります。古来俳句にも昆虫が季語として多く用いられてきました。夏の季語であるセミをテーマにした俳句では、松尾芭蕉の「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」が有名ですが、今回のテーマである蝉退も正岡子規によって「ふきもせぬ 風に落ちけり 蝉のから」と詠まれています。

 漢方薬に配合されるいわゆるセミの抜け殻である「蝉退」は、『名医別録』に「蝉殻」の原名で収載され、「小児の驚癇、産婦の子の下らぬものを治す。焼灰を水で服すれば久痢を治す」と記載があります。「蝉退」の名称は『眼科龍木論』に初見し、現在中国では一般に「蝉蛻」と称していますが、この名称は『薬性論』に初出し、「小児の壮熱、驚癇を治し、渇を止める」と記載されています。古来異名が多い生薬で、その他にも枯蝉、腹蜟、蜩蟟退皮、蝉退皮、蝉衣、知了皮、金牛児、熱皮、啣了皮、嘱猴皮、土蝉皮、虫退、麻児鳥皮、嘩蝦皮などの名称があります。

 原昆虫のセミ類は『神農本草経』の中品に「蚱蝉」の名称で収載されており、これは虫体を薬用にしたものと考えられます。李時珍は「蛻殻を用いるには、沸湯で洗って泥土、翅、脚を去り、糊をといた水で煮てから晒し、乾かして用いる。蝉は土、木の余分なエネルギーを化したもので、風を飲み、露を吸い、その気が清虚なものだから、主な治療上の功効は、皆一切の風熱の證である。古代には身を用い、後世では蛻を用いるが、概して臓腑、経路を治するには蝉身を用うべく、皮膚瘡瘍、風熱を治するには蝉蛻を用うべきものである。また、啞病、夜啼に主効のあるのは、その昼鳴いて夜やむ意味をとったものだ」といっています。

 市場には、全身黄金色で透明に近く、光沢があり、痩身で尾部に尖鋭な針状突起がある「金蝉衣」と、灰褐色、半透明で光沢がなく、成虫脱出孔は縦横十字に開裂し、口器が内屈している「土蝉衣」があります。中薬店では金進、金蝉、隻進、只進などの商品名で表記されていますが、金進、金蝉が「金蝉衣」、隻進、只進が「土蝉衣」ではないかと考えられ、市場では金蝉衣の方が土蝉衣より高級品として取り扱われています。

 セミの仲間は種類が多く、様々な種類の抜け殻が用いられてきました。日本ではアブラゼミ、クマゼミ、ヒグラシ、ニイニイゼミ、ミンミンゼミなどが一般的に見られ、生薬としてはやや大型のアブラゼミやクマゼミの抜け殻が主に利用されてきました。資源的には豊富ですが、昨今は日本産の市場性はありません。

 その他、セミの幼虫にバッカクキン科の菌類が寄生して生じるいわゆるセミ茸も、子実体がついた虫体が生薬とされ、花が咲いたような姿から中国では「蝉花」と呼ばれ、「蝉退」の一種と見なされて冬虫夏草と同様に珍重されています。日本ではニイニイゼミの幼虫につくセミタケ(狭義)のほか、ツクツクボウシタケ、オオセミタケなどが知られ、それぞれ梅雨明けごろに地中の幼虫頭部から伸びた子実体を見ることができ、種によって子実体の形が異なっています。

 蝉退の品質については清潔で泥や砂が付着しておらず、全身が砕けずに形の整ったものが佳品とされており、特に樹上にあったものは「木どまり」と称され良質品とされます。一方全身が赤く変色したものは劣等品とされています。一般に6〜9月に樹上または地面にある脱殻を収拾し、泥土を去り、晒し乾燥します。

 漢方では散風熱・透疹・止痒・退翳・解痙の効能があるとされ、熱性疾患、咽頭腫脹、嗄声、発疹、掻痒症、目の翳障、ひきつけ、腫れ物などに用いられています。配合処方としては、湿疹や皮膚掻痒症に当帰、地黄、石膏、防風、蒼朮、木通、牛蒡子、知母、胡麻、苦参、荊芥、甘草と配合される消風散や、破傷風の痙攣などに天麻・全蝎・白僵蚕などと配合する五虎追風散があります。

 真夏になると、とても芭蕉の一句に詠まれたような境地にはなれずに大きなセミの鳴き声をうるさく感じる人も多いことでしょう。一方で、古来セミが昼間によく鳴き、夜は鳴くことをやめることから、小児の夜泣きに効果があるのではないかと考えた先人たちの達観には敬服せざるを得ません。

(神農子 記)