基源:ネコ科(Felidae)のトラPanthera tigris L. の骨。
(注:虎骨は現在ワシントン条約により国際取引および国内取引が禁止されています。)

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行が続いていますが,人類の歴史はこうした感染症との戦いであったことは,最近のニュースを通じて周知されるようになりました。新型コロナと通常のインフルエンザとの違いはワクチンや治療薬があるか無いかで,このことが社会の不安を大きくしている理由の一つでしょうか。ましてや現代のような医薬品と言うものがなかった時代,感染症に対して人々はどのように対処していたのでしょうか。

 江戸時代末期の文政5(1822)年に長崎から流行したコレラは,患者・死者数を十数万人と推定する報告もあります。発症すると2〜3日でコロリと死ぬことから「三日コロリ」と言われました。大阪の薬種商が集まっていた道修町ではこの治療薬として虎の頭蓋骨を配合した「虎頭殺鬼雄黄圓」という丸薬が無料で配布されたそうです。虎の頭蓋骨は鬼も殺す薬効があると信じられていました。虎の骨格に由来する生薬は虎骨と総称されます。

 宋代の『図経本草』には「虎骨は,頭及び脛の骨を用いる。色の黄なるものが佳い。雄虎のものを用いるが勝る」とあり,明代の『本草綱目』には「凡そ虎の諸骨を用いるには,いずれも搥き砕いて髄を去り,酥,酒あるいは醋を塗る。それぞれ方に示す方法に従い,炭火で黄に炙いて薬に入れる。(略)虎骨は各部分通じて用い得るもので,凡そ邪疰を辟(しりぞ)け,驚癇,温瘧,瘡疽,頭風を治するには頭骨を用うべきもの,手,足の諸風を治するには脛骨を用うべきもの,腰,背の諸風は背骨を用うべきものである。(略)虎の一身筋節の気力はみな前足から出るものだから,脛骨を勝れたものとする」とあります。ここで「疰」は長期の発熱,「癇」は癲癇(てんかん)に類義の神経症の一種,「瘧」はマラリアのような流行性の熱病,「瘡疽」は皮膚などの悪性のはれもの,ということですから確かに流行性の感染症にも効果が期待されるものです。

 原動物のトラは何種類かの亜種に分類されますが,その中でもアムールトラ(Panthera tigris altaica;別名シベリアトラ)は大型で,この種類の骨格が優れているとされてきました。かつては中国東北地方,朝鮮半島,モンゴル,ロシア,そして中央アジアまで分布していましたが,現在はかなり限られた地域のみになっています。トラは雄の方が体格が大きく,中年虎は骨格が堅実で断面に空隙が少ないことから,虎骨としては特に脛骨が最良品とされました。トラの寿命は野生状態で10から15年とされていますから中年虎は5〜9歳程度でしょうか。ワシントン条約による規制前は,虎骨の需要は大きく,資源不足から熊(ツキノワグマやヒグマ),土豹(オオヤマネコ)などの骨が混入することもあったようです。あるいは擬物と認識しながらも代用せざるを得ない事情もあったことでしょう。それでも真物を扱う加工時には,トラであることが区別できるように四肢の爪の上の毛皮を残しておくことが習慣的になされていたそうです。全身の骨格以外にも『本草綱目』には肉,膏(脂肪),血,肚,腎,膽(胆の旧字体),睛(眼),魄(肉体をつかさどる精気),鼻,牙,爪,皮,鬚,屎,屎中の骨が収載され,『本草綱目拾遺』には「虎は一身の各部分みな薬に入れられるが,まだ虎油の効能の記載がない」として虎油を収載しています。このように虎の体はあますところなく全てが利用されてきました。虎骨は虎骨酒として製剤化されたほか,煮詰めて膠質を取り出したものを虎骨膠として使用されました。成分はリン酸カルシウム,炭酸カルシウムが主体ですが,近年では強筋骨,止痛,定驚の効果が期待され,四肢の関節痛や下肢の萎縮,麻痺,痙攣,ひきつけなどに使用されていました。

 江戸時代のコレラの流行時,大阪の道修町では薬祖神として知られる少彦名神社,通称「神農さん」に「神虎(張り子の虎)」が奉納されました。コレラ収束を願って虎骨の病除けの願いを込めたのです。この風習は現在でも続いており,毎年11月の神農祭では張り子の虎が配られています。今年は神農さん,そして張り子の虎に,例年以上に多くの願いが寄せられることでしょう。

(神農子 記)