基源:オミナエシ Patrinia scabiosaefolia Fisch.,オトコエシ P.villosa Juss. ex DC. またはその他同属植物(オミナエシ科 Valerianaceae)の根。

 敗醤は『神農本草経』の中品に「味苦平。主暴熱火瘡赤気疥疔疽痔馬鞍熱気」と記載された清火熱・消腫毒の効能を有する生薬です。最近ではあまり用いられなくなりましたが、以前は化膿性炎症疾患や産後の腰痛、腹痛、悪露などの血熱 滞を呈する婦人科疾患によく利用されていました。

 敗醤の名は、植物全体に醤(味噌など、どろどろに発酵させた食品)が腐ったような臭気があるところから名付けられたもので、この一種独特の臭気は多くのオミナエシ科植物に共通するものです。

 わが国では敗醤の原植物として、一般にオトコエシ(男郎花)とオミナエシ(女郎花)の2種の植物をあててきました。両種に共通する点は対生する羽状複葉を持つことですが、相違点は花の色にあり、オミナエシが黄色であるのに対し、オトコエシは白色です。また、オトコエシの果実には翼があります。繁殖方法も、株側で新苗が分かれて繁殖するオミナエシに対し、オトコエシは株元から長い蔓を伸ばしてその先に新株ができるなど、両者はかなり異なっています。オミナエシのたおやかな容姿は古くから歌に詠まれ、日本を代表する花の一つとなっていますが、容姿とは裏腹な特異臭のため玄関先には好まれません。そして、この特異臭はオトコエシにもあって、両者が同じように薬用にされる所以です。

 現在の中国では、オトコエシを「白花敗醤」、その他の Patrinia 屬植物は「〇〇敗醤」と称される一方、オミナエシには「黄花龍牙」と別の名が付けられています。

 一方、わが国でも『本草和名』で敗醤の和名にオホツチ(於保都知)とチメクサ(知女久佐)が記載され、『大和本草』では「オホトチは白花。"おとこおみなの花"で、オトコエシである」としています。

 以上のことを考えあわせると、敗醤はオトコエシであるように考えられますが、古来の本草書を見る限りは、両種共に当てはまらない記載が見られます。すなわち『名医別録』には「敗醤−−−江夏(湖北省武漢市)の川谷に生える」と日当たりの良い山地に生える両種とは異なる生育環境が記されるほか、『神農本草経集注』には「近道に出て葉はキク科のメナモミに似て根の形はセリ科のサイコに似ている」、『新修本草』には「この薬は近道に出なく、多くは丘陵に生え葉はキンポウゲ科のウマノアシガタなどに似ている。叢生し花は黄色で根は紫で古い醤の色でその葉はことさらキク科のメナモミに似ているということはない」などとあるからです。これら初期の本草書で共通しているのは「花が黄色で、葉が卵形で羽状には切れ込んでいない」ということで、葉の形からもオトコエシにもオミナエシにも合致しません。では何に似ているかといえば、『神農本草経集注』の記載文からは、わが国の自生種ではチシマキンレイカ、マルバキンレイカ、キンレイカなどが浮かんできます。

 Patrinia 属は東アジアを中心に15種があって、それらのうち日本と中国大陸との共通種は、チシマキンレイカ、オミナエシ、オトコエシの3種です。そのうち私たちが身近に採取できるのは後者2種であることから、わが国で敗醤にオミナエシとオトコエシが当てられたのであろうと容易に想像されます。

 以上、古来の敗醤の原植物を特定するにはさらに多くの資料を見るほか、詳細な現地調査が必要であると思われますが、醤の腐ったような臭気をもつ植物を敗醤として利用しているのであれば、さらに多くの原植物が見つかりそうです。

 今月もまた、生薬の原植物の迷路に入り込んでしまいました。何千年も前のことを調査するのはとても難しく、本草書の中にもう少し具体的な記載があれば、とついつい思ってしまいます。しかし、それは今の私達とて同じことであり、記録することの大切さと難しさを改めて痛感します。

(神農子 記)