基源:Smilax glabra Roxburgh(ユリ科 Liliaceae)の塊茎

 『和漢三才図会』に「楊梅瘡(梅毒)の重い者は山に捨てられる風習があったが,土茯苓を服し治って帰って来たところから"山帰来"と名付けられた」とあります.土茯苓は古来梅毒と縁の深い生薬で,室町時代(1338年〜1573年)にすでに梅毒の治療に使用されていたという記載があります.『和漢三才図会』の記事から察すると土茯苓と山帰来は同物異名品ですが,名称に関しては,「山帰来」は土茯苓の別名「山奇粮(糧)」から訛化したとする考えや,室町時代の遣明船によりもたらされたものが「山帰来」とよばれていたとかする説があり,また我国に産する代用品に「山帰来」があてられたとする説もあります.

 一方,『用薬須知』(1726年 松岡恕菴)には「土茯苓漢を用いるべき.和に之無し.和の山帰来は拔契なり.山帰来というもまた和名にして漢名にあらず.しかれども効用甚だ相遠からず−−−薬用する事甚だ稀なり」とあり,「山帰来」は和名であり,現物は漢薬「拔契」すなわちサルトリイバラ Smilax china Linne であるとしています.『増補手板発蒙』(1824年,大坂屋四郎兵衛)にも,土茯苓の漢種が享保年間にもたらされたという記載があることから,土茯苓と山帰来はやはり違った薬物であったことが窺えます.

 中国でも稀用生薬であったためか,「土茯苓」が本草書に正式に取り上げられたのは,李時珍の『本草綱目』が最初です.そこでは陶弘景が「南方の平沢に禹餘糧の一種があり,藤性で葉は拔契のようで根は塊状で節があり,拔契に似て色が赤く,味が薯蕷(ヤマノイモ)の様な物だ.やはり禹餘糧といっている.昔禹が山岳を跋歩した際,これをとって食糧とし,余りを捨てていったものがこれだと言い伝えられている」と記しているものが「土茯苓」であると述べられています.しかしこのものは,食用になるという点から現在の禹餘糧(鉱物生薬)ではなく,ヤマノイモ科の植物であると考えられています.李時珍は「茯苓の様な形をしているので土茯苓と名付けられた」とし,当時の土茯苓が現在のものと同じであったか否かは疑問が残ります.李時珍が言うように形から名称が名付けられたためか,異物同名品が多く,中国でも古くから混同していたものと考えられ,その状態がわが国へも影響したと考えてよさそうです.

 「拔契」と「山帰来」は昔からよく混同されていました.徳川幕府は国産薬(和薬)の流通機構の整備と検査をはかるために,『和薬種六ヵ条』(享保7年,1722年)の公布に際し市場調査を行いましたが,このとき大坂の薬問屋代表は「近年,唐山帰来(土茯苓)の輸入がなく市場は高値となっている.薩摩の売船が和産の山帰来を積んで上方(関西)へもってきているが,そのなかで琉球産というものは優れてよろしく,唐山帰来と同質のようである.薩摩産はそれより劣るが,両方とも山帰来と称して良いと思う.そのほか西国諸山のものは拔契と思われる.云々」という報告をしています.幕府はこれに対し「琉球産・薩摩産の極上のものは今後商売して差し支えない.ただし拔契とみられるものは混和して売らぬように」と返答しています.当時は正品以外のものの使用を認めねばならないほど梅毒が蔓延し,「山帰来」の需要が高かったのでしょうか.また,ヨーロッパ諸国にも"China root""Chinawurzel""Radix China""China wortel"と呼ばれる生薬が中国から伝えられたとされ,これに「土茯苓」をあてる説もあり,ヨーロッパへの「土茯苓」の供給が増したから我国への流通が減ったのではないかといった報告もあります.

 李時珍によると「土茯苓」は,弘治・正徳(1488ー1521)の頃から流行していた楊梅瘡の要薬とされました.また,ヨーロッパでは,『ワートル薬性論』に「梅毒にも使用されるようになったが,梅毒の治療薬としては長続きせず,最近では発汗剤に加えたり軽症の慢性リウマチに用いる程度である」といったことが書かれ,梅毒にはさほど有効ではなかったことが窺えます.もっとも中国でも「土茯苓」は直接的な梅毒治療薬というよりも,その当時梅毒治療にも利用されていた皮膚病薬の軽粉(塩化第一水銀)の水銀毒による害を防ぐために用いられていたようです.最近では抗癌作用があることがわかり,さらに詳しい研究が期待されています.

 現在「土茯苓」は主に湖南省,広東省に産し,中国市場には2種あり,断面が白色を呈するものを「白土茯苓」「白土苓」,紅色を呈するものを「紅土茯苓」「紅土苓」と称します.正品「土茯苓」は後者の方で,淡褐色で,粉性が強く,繊維の少ないものが良品とされます.

(神農子 記)