基源:ゴシュユ(ニセゴシュユ) Evodia rutaecarpa Bentham または(ホンゴシュユ)E. officinalis Dode (ミカン科 Rutaceae)の果実.

 呉茱萸は使用頻度としては少ない生薬ですが,寒湿の病にはなくてはならない薬物です.『神農本草経』の中品に収載された薬物で,呉茱萸の名称は呉(現在の江蘇省一帯)に産する茱萸であるからとする説と,呉に産するものが良質品であったからとする説があります.

 日本薬局方では原植物にニセゴシュユとホンゴシュユの2種を規定していますが,植物学的には両者を同一種とする説もあり,その場合はホンゴシュユの学名を E.rutaecarpa Benth.var.officinalis Huang とします.生薬となったものはニセゴシュユの方が大型で,慣れれば一見して区別できます.現在市場には双方ともに出回っています.臭いはわずかに異なっていますが,薬効的な違いに関する研究はまだなされていないようです.

 呉茱萸には古来いくつかの種類があったようで,中国の本草書には食茱萸の名もみられます.このものが同じ Evodia の仲間であったか否かには疑問がありますが,陶弘景が「これは即ち今の食茱萸である」と記し,また他の本草書の中での大方の意見も「2種を同一物とする」ことで一致していることから,主流を占めていたものはやはり Evodia 属のニセゴシュユとホンゴシュユの2種であったと考えられます.しかし,『新修本草』では食茱萸を別項にたて,「呉茱萸と同じ効能であるがやや劣る.しかし水気を治療するにはこの方が良い」とし,さらに「皮が薄くて開口するものを食茱萸と称してはいるけれども,多食できるものではない」と記していることから,食茱萸が同じミカン科のサンショウの仲間であったことも考えられます.

 わが国へ呉茱萸の原植物が伝わったのは享保年間(1720年前後)であったとされ,そのとき入ってきたのが果実の大きなニセゴシュユの方であったことは,内藤尚賢が『古方薬品考』(1843年)の中で「呉茱萸,舶来者粒小,邦産其粒大倍漢産」と記していることから明らかです.Evodia の仲間は雌雄異株で,このとき伝来した株は雌株であったようです.本植物は地下に延びる走出茎によってどんどん増えるため,わが国では雌株ばかりが増えることになり,この状態が現代まで続き,わが国ではゴシュユは花は咲いても結実しないと云うわけです.

 一方,それよりもずっと以前,平安朝時代の書物『延喜式』に呉茱萸が朝廷に献貢された記載があり,大和,近江,出雲,安芸,土佐などの広い地域がその産地に挙げられています.この時代の呉茱萸が果たして Evodia の仲間であったか否かという点にも疑問が残ります.Evodia 属植物の果実は舌を刺すような辛味が強すぎて到底食用にはなりえないことや,平安時代に書かれた『和名抄』,『本草和名』,『医心方』などに呉茱萸の和名として「加良波之加美(カラハシカミ)」,食茱萸の和名に「於保多良之美(オホタラノミ)」などの記載があることなどから察して,当時のものは中国の食呉茱萸とともに同じミカン科のサンショウの仲間の若い果実であったことも考えられます.

 さて,呉茱萸の品質についてですが,漢産の小粒で黒色を呈する辛味の強い苦いものがよく,また六陳の一つに数えられることから陳旧品がよいとされています.現在中国の貴州,湖南,広西,雲南,四川,陝西,淅江の各省やそのほか各地で栽培されますが,貴州,広西産のものが産量が多く品質も良好とされ,中国各地のみならず国外にも輸出されています.わが国の市場品の大部分も中国産です.味が激しいことから,古来種々の加工法が考えられ,宋代の『本草衍義』(1116年)には「熱湯の中に浸し,揉み洗い苦みの烈しい汁を去る事六七たびにしてはじめて用いる」とし,わが国でも同様の方法が行われていたことが曲瀬道三の『薬性能毒』(1566年)の記載から窺えます.またその一方で『一本堂薬選』(1729年から1733年)には「こうした加工は完全に行うと呉茱萸の気味がなくなってしまう.別録に陳久のものが良いと記されてから後生多く陳いものを用いている.故に,海外から来るものは自ずと陳久品であるのだから気にすることはない」といった趣旨を述べています.

 陳皮と枳実を加え,六陳の中にミカン科植物由来の生薬が3種もあげられていることは興味深いことです.

(神農子 記)